4月

今日は、4月1日(日曜日)。今年は、復活祭(イースター)に当たる。教会の人達は、脇之島にある平和霊園で、墓地礼拝をする。朝の礼拝が終わって、昼から、皆で出掛けるようだ。遺族達が、お墓の前で、亡き先祖を礼拝する。僕の家は、仏教のお墓が、多治見工業高校の裏の墓地にある。お墓参りは、供養のため、遺族がするが、足腰が悪くなってから、行く回数が減ってきた。今朝NHKで、「墓じまい」の番組を放送していた。お墓を守る子孫がいなくなると、墓が荒れてしまう。「お墓が荒れると、家も荒れる」と言われる。確かにそのとうりだ。しかし、僕が死んだ後、お墓参りに来る人がいなくなる場合、「墓じまい」も現実的な問題になる。今は、なるべく考えないようにしている。その問題から、逃げているだけだ。今日は、桜が満開だ。快晴の青空が、桜の花を引き立てている。市内は、桜ばかりだ。今週末は、雨模様になるから、その時には、散って、葉桜になるのだろう。葉桜も風情がある。今日は、お花見をしている人も多いだろう。4月は、年度始め。入学式や入社式がある。若者が、将来の抱負を語っている姿は、眩しい。僕は、入学式の緊張感とわくわく感は、忘れられない。昔「ぴかぴかの一年生」というCMがあった。ランドセルを背に背負って、たどたどしい言葉で話していた。あの時の子供達も、今は立派な大人になっているのだろう。人生は、思ったようにはいかないものだ。妥協しながら生きていくのだろう。最近、桜を見ても、明るい気分にはならない。人生の終わりが、近づいて来たためだ。今年は、桜が見られたけれど、後何年見られるのだろう。「もし生まれ変われるなら」と、実現不可能な事を考えてしまう。目標もなく、その日暮らしをしているため、4月に抱く希望が無い。70歳(古希)を迎えたためだ。余生ばかり考えてしまう。

町内会

3月28日(水)の今日、全国的に気温が高くなった。多治見市は、25℃を超える夏日になった。ピアゴの前にある桜も、満開に近くなった。桜の花の下を歩いていると、花を見上げてしまう。ピアゴに来るようになって、5年目になった。2014年2月からだ。桜を見るのも5回目になる。「春になると、桜が咲く」のは、自然の事。ふと、あと何年花見が出来るのだろうかと思う。身近な人達が、亡くなっているからだ。僕の町内は、高齢化が進んで、80歳以上が多くなった。戦争前から代々住んでいる家族が多いためだ。団地のように、新住民が、ほとんどいない。そのため、町内会の顔ぶれは、変わらない。また、役員がすぐ回ってくる。同じ人が、色々な役員をする。僕も、毎年役員をしている。2015年は、町内会長、2016年は、福祉委員長、2017年は、副体育委員長、2018年の今年は、体育委員長。仕事で忙しい人は、やりたがらないから、僕に回ってくる。他には、商店街の役員や、お寺の役員もやっている。面倒な時もあるけれど、人と触れ合う楽しみもある。普段付き合いのない人と、知り合えるからだ。長く住んでいても、若い人とは、話す機会が無い。僕が子供の頃、よく遊んでもらった親の世代は、他界しているから、思い出や写真の中にいるだけだ。そのため、町内会の役員をするのは、僕達の役割になる。僕も、足腰が悪くなってから、階段の上り下りに苦労するし、長く歩けない。町内会の仕事も、桜の花と同じで、あと何年出来るのだろうかと思う。出来る間は、頑張るつもりだ。賞罰無しの人生で、終わるのだろう。人から表彰される業績も無く、人から褒められる事も無い人生。せめて、町内会の仕事は、しっかりしたい。

古希(70歳)

今日は、春分の日。3月21日(水)。雨の降る、あいにくの空模様。お彼岸の中日なので、お墓参りに行く日だが、足腰を悪くしてから、お墓掃除をするのが、苦痛になった。お墓に入っている両親には、悪いけれど、さぼってしまう。祝日は、人通りが少なくなり、とても静かだ。平昌オリンピックとパラリンピックが終わり、テレビを見る楽しみが、少なくなった。森友問題の参院予算委員会を見ていても、早く終わって、正常化して欲しいと思う。3月22日は、僕の誕生日。古希(70歳)になる。ただ長く生きているだけだ。「馬齢を重ねる」という言葉が、すぐ浮かんでくる。友人達も、リタイアして、第2の人生を歩んでいる。50年前の20歳の時は、70歳の自分が想像できなかった。世の中も、どうなっているのか、考えた事もなかった。しかし、今の自分と社会を見ると、情報社会になって、便利になったが、人間の本性は、変わらない気がする。同世代の人達が、亡くなっているのを見ると、僕も、エンディングが近いと思ってしまう。しかし、なるべく考えないようにしている。考えても仕方が無いからだ。毎日の生活で、気を紛らわせているだけだ。2月に、菩提寺で、檀信徒会館の新築お披露目と、創建350回忌を兼ねて、法要が行われた。30人ほどの僧侶が参加されて、初めて見る大きな法要だった。次の日は、息子さんの、上山記念激励会があった。お寺の跡取りになる人だ。修行は大変で、本人も覚悟をしているようだった。普段は、7月のお盆と、1月の星祭だけだが、法事があると、お寺で行う。法事をして、供養すると、生きている遺族も、慰められる。僕は、あと何年生きられるだろう。足腰が弱くなってきたから、以前より、自信が無くなってきた。老いるショックは、急に来るというからだ。昨年は、叔父と叔母が、100歳を超えて、亡くなった。またもう一人の叔母は、96歳で亡くなった。長寿であるけれど、施設に長く入っていた。これで、父方と母方の兄弟は、すべて亡くなった。僕が70歳だから、当然だろう。「光陰矢の如し」と分かっているけれど、時の流れは止められない。せめて、毎日の記録は、日記として書いておきたい。人に見せるためではなく、自分の足跡としてだ。このブログの記事も、そのためだ。僕は、字が上手ではないため、パソコンでは綺麗な字のなるのが、気に入っている。手書きの日記帳は、判読し難い時もある。僕が亡くなったら、日記帳は処分されるだろうが、ブログの記事は残っていくだろう。そう考えると、差し障りのある事は書けない。人の悪口や陰口は、書かない。これからも、日常の出来事を、記して行きたい。

麦の会(35)

春らしい陽射しになってきた。しかし、空気が冷たい。風も寒い。明るい朝は、爽やかだ。今朝は、麦の会に出席した。女性5名、男性2名の参加。年度末のため、忙しいのだろう。今は、「弱さを抱えて歩む」(堀肇著)を読んでいる。E.失望に終わらない喜びの中の、39.不思議な慰めの秘密ーイエスの母マリヤ 40、改悛の涙を流してーペテロ 41、今できる小さなことをー七人の漁師 の3章を読んだ。39、は、イエスの母であるマリヤは、「目だたぬ家の目だたぬ娘」と言われ、ナザレに住んでいました。有名な処女懐胎を告げる「受胎告知」は、御使いから、伝えられました。マリヤは、「カナの婚宴」や、「イエスの十字架」の場面に登場しています。母としての痛みや悲しみを体験しました。私たちは、マリヤに親和感と慰めを感じますが、その秘密は、受胎告知の時、「私は、主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」という、神への謙虚な態度にあるのです。そこに、「主のはしためです」という謙虚な生き方を見る時、人は、その人の中に、慰めの源泉を見るのです。マリヤの中に、それが見られるのです。40、弟子の中で、スポースクマン的存在のペテロは、その性格が、強烈で行動も大胆なだけに、性急で軽はずみな言動が目立ちます。彼の衝撃的な出来事は、イエスが逮捕されて、大祭司カヤパの官邸に連れて行かれた時、その中庭で、イエスの仲間であること指摘されると、三度も否定したことです。しかし、裁判に連行されて行く途中、イエスが「振り向いてペテロを見つめられた」のです。それは、赦しのまなざしでした。「イエスは、この視線の中に、愛情と許しの無限の宝をこめた」(作家モーリヤック)のです。ペテロは、この視線・まなざしを受けた時、「外に出て、激しく泣いた」と、記されています。ここに深い感動を覚えます。ペテロの偉大さは、自分の行動を深く悔い、イエスの愛と赦しのまなざしの中に、身をゆだねたところです。このような態度が取れるかどうかが、人生の「分かれ目」のように思えてなりません。彼は、弱さと破れに改悛の涙を流し、イエスの愛に、身をゆだねたのです。41、人生には、目当てを失い、何をしていいのかわからなくなることがあります。福音書の復活物語に登場してくる人物にそれが見られます。イエスが、ガリラヤ湖畔で、7人の弟子たちに姿を現されたときの話です。弟子たちは、何をしてよいのかわからなくなり、ペテロが「私は漁に行く」と言って、かっての仕事に戻ったのです。他の弟子たちも、一緒に漁に行ったのです。これは、「今できることをする」のです。「もしあなたが憂鬱であったり、不安であったり、不機嫌なときには、すぐ真面目な仕事に取り掛かりなさい」(カール・ヒルティ著「眠られぬ夜のために」)。「真面目な仕事」とは、特別な仕事ではなく、普段していることです。「この世の小さなものに眼を注ぎなさい」とも言っています。7人の漁師たちが、失意の中で取った行動は、「漁に出る」ことでした。たとえ小さくとも、その精いっぱいの行動は、必ず報われると信じてよいのです。弟子たちが、素晴らしい食卓に招かれ、また後になすべき本当の仕事(使命)を与えられたように。以上が、今回の学びです。

麦の会(34)

2月28日に、麦の会があった。参加者は、女性5名、男性2名と少なかった。平日の午前中だから、参加したくても、出来ない人も多い。「弱さを抱えて歩む」(堀肇著)を読んでいる。今回は、E、失望に終わらない喜びの中の、36、喜びの知らせを聞くためにーベツレヘムの羊飼い 37、見捨てられ感を超えてーサマリヤの女 負わされた十字架の意味ークレネのシモン の3章を読んだ。36は、クリスマスには、必ず朗読される箇所だ。社会の底辺に属する羊飼いに、一番最初に、キリストの誕生が知らされたのです。おそらく彼らは、無邪気な心の持ち主で、今の仕事に、満足していたのです。これは、信仰につぐ至高の美徳です。そのため、天使の告げる「喜びの知らせ」を聞いたのです。38、は、サマリヤのスカルという町で、井戸の傍らで、休んでいた時、水を汲みに来た女性に、イエスが話しかけたのです。その女性は、5人の夫と離婚し、今は6人目の男性と、同棲中でした。イエスは、それを見抜いて、水をめぐる問答を契機に、魂の渇きを覚えている女性に、渇くことない「永遠のいのちへの水」を与えようと言われました。この女性は、低いセルフイメージと強い不安感、深い孤独感を感じていたのです。人間にとって、「だれも私を必要としていない」という思いは、苦しいものです。これは、現代人の心の飢餓状態を象徴的に描いているのです。常に「見捨てられ不安」があるのです。イエスは、それらの人々へ、「いのちの水」を与えるために、来られたという「迫力ある物語」なのです。38、は、イエスがゴルゴタの丘に向かう途中、ローマ兵が、クレネのシモンに、十字架を背負わせた話です。無理やり背負わされたのですが、これは素晴らしい奉仕でした。マザーテレサは、受難を分かち合う苦しみは、素晴らしい神様への贈り物と言っています。人間の世界は、お互いに助け合って、生きているのです。その愛の贈り物によって、心が温められるのです。その事を、考えさせる話です。今回は、ふくいんのなみの人達が、多治見教会の紹介映像を撮影された。新しい会堂になって初めてだ。月に1回開かれる会だ。これからも参加したい。
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僕のブログです。感想があれば、投稿して下さい。タイトル「そよ風」のような、爽やかな記事を書きます。

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